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『夢・出逢い・魔性』ネタバレ書評

森博嗣『夢・出逢い・魔性』のネタバレです。注意!

 
 さて、本書において、おそらく読者のほとんどが騙されていたであろう稲
沢の性別誤認トリック。こういう風にメイン以外のアクセントとして使用さ
れる分には、全くもって文句がない。それどころか、洒落た趣向だと思う。
特別なアイデアと組み合わせて使うといったような、目の醒める工夫がない
限りは、是非ともこういった使い方をして欲しいものである。     

 ところで、どうしてこんな風に完全に男だと思い込んでいたんだろう、と
いうのが気になって、最初の登場シーンを見返してみた。なるほどそういう
テクニックか、と思わされてしまったので、ここに書き記しておこう。 

 まずは38頁。探偵を捜している辻谷に、稲沢という人物がいることを紹
介したときの相手の台詞。                     

  「いいじゃん。その彼でいこう」                

 これで、まず読者に対しても、先入観を植え付けている。しかし、これは
まだまだ準備段階。決定的なのが、45頁。             

  保呂草が海外にいるとき、日本から観光旅行でやってきた稲沢と妙 
  な経緯で同じホテルになった。そのあと、1週間ほどずっと彼と一 
  緒だった。                          

 この最後の1文。この意味合いを考える前に、続く文章を見てみよう。

  辻谷は稲沢を見て、ちょっと驚いた様子だった。おそらく、彼の抱 
  いていたイメージからかけ離れていたためだろう。もう少し年配で 
  頑丈なタイプ、渋いベテラン探偵を想像していたのに違いない。  

 さて、このテクニックが効いているのは、”視点”によるものが大きい。
Vシリーズは、エピローグやプロローグに、保呂草の一人称の独白が入る場
合が多い。それに対し本文は三人称なのだが、随所に保呂草の視点的三人称
が盛り込まれている。一応、保呂草が書いているという設定だろうから、単
純な三人称ではなく、時折そういう視点が固定化されたような三人称が入っ
てくるのも、仕方ないと納得できよう。そしてVシリーズを通じて、読者は
そういう保呂草的三人称に慣らされてしまっているのである。     

 上記の45頁の後半部分は、明らかに保呂草的三人称。実際には辻谷は、
稲沢が女であったことに一番驚いていたのだろうが、その感情は偏りのない
三人称では描かれず、保呂草の心中を射影したような三人称になっている。

 この辺の文章は、そういうひとかたまりとして、保呂草の視点からの三人
称であると、読者は特に意識を持つことなく、そういう認識になってしまっ
ているのだと思う。だからこそ、『そのあと、1週間ほどずっと彼と一緒だ
った。
』という文中の”彼”を、読者は何の疑いもなく稲沢のことだと認識
してしまうのだ。                         

 これが平等な三人称であれば、”彼”は保呂草にかかっていても、稲沢に
かかっていても、たしかに文として成立する。アンフェアとの主張は出来な
いだろう。たしかにそれでも普通は、稲沢にかかっていると認識するだろう
が、上記の保呂草的視点に慣らされている我々にとっては、”彼”という表
現に、認識的には”私”である保呂草を重ね合わせることなど、出来るはず
がないのだ。それこそ一切の疑念無く、完璧に。一人称的三人称の罠。 

 私がかぶっているものは、こういうテクニックが好きらしい。    

 そうそう、まったく、また、こういう意味深な一文を、最後の最後に持っ
て来るんだもんなぁ。何かやってくんないと、気が収まらないよ。   

 
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